昭和51年01月20日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
昨日もう五時も過ぎておったでしょうか。いつも4時半に私ここ下がらしてもらうんですけれども。昨日次々お取次ぎさしてもらいよりましたから、一時間ばっかり遅くなった。そこへ丁度福岡の、嘉郎さんがお得意さん、という方をお導きしていた。その方は不思議なその病気で血を吐かれる。それは何かわからない。そこでその医者に診察してもらおうというので、まっ大変心配しておられる所へ、嘉郎さんが行き合わして、ほんならひとつあの私がお参りしよる所へ一つご案内しましょうと。
そして病院に行ってここへまあ、やって来たわけですけえども。丁度病院は先生が不在であったかなんかで、ここへ参って来たんです。そいで私があのうおかげ頂きますよと。病院にもう行かんでもおかげ頂くよと、まっいう申しました。それがその確信を持って言われると言う事をは、どう言う事かというと、神様がね私をここに待たせてござる、その人のお取次ぎをさして下さる為に。だからもう帰りに病院にゃ寄らんでもいいですよ。おかげ頂きますよといえる。(笑い)
もうほんとに涙を流さんばかりに喜んで帰られたんです。あたくしゃ丁度ここに頂いておった句を御神米に書き下げて、渡させて頂いたんですけども、山も叉月待つ心容(すがた)せりという。姿というはあの容という字ですね。形ともいう形せりというてもいいわけです。山も叉月待つ心容(すがた)せり形せりでも、ね。まあ姿のいい山。それにいわばあっ満月がこう上がって来る。
山もいかにもその月が上がって来るその月と山との姿その美しさをです、こう月が上がって来るのを待っておるかの様なという情景なんです。山も叉月待つ心容(すがた)せり。私は今日の御理解を頂いて、ね、神様もまた私共の心がそれこそ、ね、満月の様な心。まんまるいいうならば心を待ってござる。私はそういうふうに今日の御理解から頂くのです。ね、それこそ昼を欺くような満月。月そのものには光はなくても、ね、その月が丸ければ丸いだけ大きな光を放つ事ができる。
神様の光をこれに受けて、そして光を放つ事が出来る。金光大神の世界とか、叉は金光大神の境地というのはそういう心だと思うんです。ね、なら金光大神とても、いうならば、ね、いうなら実をいうたら神様ではない。ね。金光大神の心が、いつでもどのよう場合でも、満月のような心を頂いておられるから、ね、神を欺くほどしの、いうならば、光が輝いてくるのである。神を欺くというか、ね。昼を欺くような光。神様とおんなじような光を放ちなさる事がでけるのである。
だからみんなもこの丸い心を目指させて頂くと言う事になれば、誰でもおかげが受けられる。この方の事を生神生神というが、生神とはここに神が生まれると言う事であってと。いうならば私共の心が満月の様なやわらかい、ね、暖かい大きな心にならせて頂く事を、願いとする信心。そこで私共がいつも、例えばいろんな問題がおこったり、難儀な事になって参ります時には、ね、一般にも申しますように、自分の胸に手を当ててみよと、言う様な事を申します。ね。
成程自分の胸に手を当ててみると、おかげの頂けない方が本当だと言う事が解る。ね、成程おかげの受けられない内容が、自分の胸に心に一杯なんだ。ね、それでいて例えばおかげを受けておるというのは、ね、ただ金光大神のお取り次ぎのお徳によって、おかげを受けておるだけなんだ。自分の胸に手を当ててみる自分の心を覗いてみる。そこにおかげの受けられない、そして段々段々自分の心がね。私は今朝からほんとにまあ、これが高ぶった心というのじゃなかろうかとこう思うた。
大体が私はどこを改まったらよかじゃろかと。まっみんな一般にいいますよ。先生あしゃどこを改まったらよかですかち。あんまり多かけんでい教えられん。(笑い)というのが皆さんがそういうふうにいう時のですけどもね。かこれは私自身の事。(笑い)大体自分はどこを改まったらよかじゃろか。もっ改まる所がないぐらいに自分の心の中に、安らぎと喜びを一杯感じておる時なのです。
このごろ御神前で(咳)、のう私の事をあの歌舞伎ちょうにですね、しらざぁ言って聞かせようという、あのう台詞で、あのうずうっと頂いたんですけれどね。生まれはほし発心山(ほっしんざん)のふもとにてか。(笑い)なんとかずうっとこう頂いて一番さいごにね、ん。今生神の名もたけいと言う様な事がある(笑いながら)。ね、大坪総一郎というわけなんです、ね。ここにおいさみがありましたね。ほんとにあの今生神を目指さなければだめなんです。ね。
だからこれはもう難しい事とかねっと言う事ではなくて、私共が本気で心に取り組むと言う事が信心だと分らして頂いたらです、もう楽しゅうして楽しゅうして稽古が出来るんです。ただおかげを目指すから難しいのです。ね、昨日でした。三時あぁまっ三時から研修やってます。いま二十何名おりますからね。一時間でもたらないくらい。ですからさじっぷん(三十分)早めに研修さしてもらった。みんなのそれぞれのを頂いて、最後に末永先生が発表しておりました。
その一番書き出しのところに、家内がお多福に見える時には、自分がひょひょっとこである事を悟れと言う様なところがあったでしょう。そこを家内がおたふくに見える時には、自分がひょっとこに見えると悟れというた途端に、この柱にカチーッとオイサミがあったです。もう末永先生あんた今日はこの事だけば頂きゃよかね、て言うた事でした。この人だけは不思議にですね、そりゃも人にゃとてん夫婦ともいいでしょうが。もうそれこそ良過ぎる位によいとです。
所がそれかんちいうて、夫婦仲が悪いわけじゃないけれども、お互いのいうならば、お前お多福だからとか、あんたがひょっとこじゃからとかと言う様な意味の事をいつも繰り返しとるわけです。いうならば主人のあらが見える見え過ぎる。家内のあらが見え過ぎる。ね、だからここの所をです例えば悟らして頂いて、家内が例えばお多福さんに見える時には、自分自身がひょっとこに見えると言う事が。
自分の心を見る事なんです、ね、というてそんならあんたが一遍に林長次郎んごたるよか男になるわけにもいかんし、君子さんがあんなら、あっ山田五十鈴のごたる綺麗な女子に一遍になる訳にはいけんから、ね、今のままひょっとこと、お多福さんですかね、おかめの。んならそれなりにね、おかげを頂いて行くと言う事に、も焦点をおく事意外にないねと言う事で。ね、そういう例えば生き方を身に付けていくという、目指していくと事にもうそこに、生神への道は極まったと言う事です、ね。
もうこの、ね、このかたの事を生神生神というが、みんなもその様におかげが受けられると、教えられるのですから。ね、それを矢張り自分の心の上にも頂かしてもらう。そこに焦点を置く以外はないのです。ね、段々おかげを頂いて、はぁそれこそねわたしゃどこを改まったならよかじゃろかと、自分の心に惚れ惚れするごたるね、心の状態を目指してお互い信心させて頂いたらどうでしょうか。ね汚い心があるね。人を恨むねたむそねる。ね。四神様は憎い可愛いを、心からとったら楽とおっしゃる。ね。
それに例えば人を妬むとか、ね。そう言う様な例えば心が微塵も、さらさら無い様に段々なってくる。ね、そこに私は信心の稽古の焦点があり、叉そういうおかげの頂けれる、一つの過程としてです。 ね、いわば家内がお多福さんに見える時には、自分自身がひょっとこである事を悟らにゃならん。こういう難儀な目をしなければならん。そういう難儀は丁度お前にはつりあってるんだと言う事なんで。ね。そこに私は有難いという心も頂けるし、叉改まっていくという意欲も出てまいります。
二、三日前ですか。元あの椛目におりました時分に、篠原たつよさんという方がおられました。大変元気なまあ根性のしっかりした方で、二、三日前亡くなられた。丁度百歳になられた。この方はもう若い時から非常に胃が悪くてですね、その夏に青がえるちいうのがおるじゃろが小さいと。私しの一番すかんとです。あれを見つけたら必ずぱっと口ん中に入れなさる。あれは大変な胃の薬になるそうですね。だから椛目。あたいどんが若い時分なあんかえるがおります。
はよ逃げんとたっちゃんがきよってぞ、ちゆうちからいうぐらいに有名でした。(笑う) だから私はそのたっちゃんおばしゃんが亡くなられた時に聞かせて頂いて、こりゃも隣近所のかえるが喜びよる、ち私は(笑いながら)いうたこっででございましたけれどもね。ほんとにそのくうよくが、あとやさき百寿も露の命かな。と言う様な、まっ御霊様にささげるつもりでこんな句が出来ました。あとやさき百寿も露の命かな。お互いがねそやぁ長生きしていわば百です。ね。
その間に私共が愈々我と我が心が拝めれるような、心の状態を作っていくと言う事が、私は信心だと思います。ね。ただ死んだあとに、かえるが喜ぶだけじゃいかんのです。ほんとにお婆ちゃんが亡くなられたあとのいうならばですあとの助かり。お婆ちゃんの信心が、私共がかく助かっていけれるもとを作って下さったと言う様な、お爺ちゃんであらなければならない。お婆ちゃんになる事を目指さなければいけんのです。ね、私共が例えば教団でも言われます。
金光教の信心とは、ね、総生神を目指す事だと言う事なんです。ただ信心をしておれば生神に近づいていけると言う事ではない。もお一言一言をです、ね。只今末永先生が事で頂きましたように、ね。結局自分のかげておるだけ光が少ない。ね、三日月さんであれば三日月さんがた。半月(はんつき)であれば半月(はんつき)さんがた、ね。心が真っ暗という時には、もう暮れの闇になっとる時である。ね。神様もその氏子のまん丸な満月の心を待っておられる。山も叉月待つ心容(すがた)せり、ね。
その神様の願いにこたえてお互い信心をさせて頂く。ね、それには神様がいうならばお嫌いになる心とか、ね、そんな事じゃおかげの受けられないという、そこん所を改めてたださせてもろうて、それこそどこを改まったならよかじゃろかと自分で思うくらいにね。厳密にいうたらそうじゃないですよもうそれこそ。それと違いますけれどもです、たまにはそういう心持ちに浸れれるくらいなね、おかげを頂いて、ははぁこれが金光大神への入り口だな、と思わせて頂いて、それを愈々ほんとなものにしていく精進を、愈々さして貰わなければいけんと言う事ですね。
どうぞ。
少しはましな信心のない人たちよりも少しはましな、冷たい私と言うか暖かい私と言うか、ね、少しは美しい私ことにならなければ、ひとっつも人も付いてきないし、はれません。いわゆるビールが冷えませんです。私は今日はね。はっ、この事を頂くばいのと思うて、今の事を忘れてましたけどね、例えば生き神を目指すという、これはもう第一歩です。信心しなさるごとなったけんで変わらしゃったと言うくらいなね、少しはいわば冷たい水でなからなければ、ほかのビールをそこん中へつけても冷えません。
もう同じ事ではね、信心のある者もなかもんも同しような考え方ではいけんのですから、その考え方を変えていく、心の内を改めていく、いつも自分の胸に手を置いて、ここん所に精進すると言う事を頂いとりましたけれどね。忘れておりましたからどうでも一つね、あの人よりもね信心のないものよりも矢張り冷たくなからにゃそのビールは冷えんということ。冷たいと言う事は、ビールを冷やすと言う事においてです。ね。
どうぞ。